こんにちは、@vertigonoteです。
『花園magazine Vol.4 2014春夏号』をご購読いただいた皆さん、本当にありがとうございます。まだまだ申込みも受け付けておりますので、お気軽にDM・リプライ・メール等いただければと思います。旅特集ということで、近いうちに海外旅行を考えていらっしゃる方はもちろん、「想像の世界で旅をする」ことや(何しろ書き手のひとりである私自身にあまり旅行の経験がない)ちょっとした日帰り小旅行や近場のお散歩好きな方にも楽しんでいただけるような特集もありますので、機会あればお手に取っていただければ幸いです。
さて、ただいま私は寝不足です。朝倉かすみ『てらさふ』があまりにも面白く、昨夜、序盤はゆっくり読んでいたのに後半に入ってどんどん凶悪なドライヴ感が増していくにつれやめられなくなり最後まで一気に読んでしまったから。「ほかのひととはちょっとだけ違う」(この“ちょっとだけ”という感覚の絶妙さ!)自分を持て余した、田舎のやや丸っこい中学生・弥子が、愛してくれる人やわくわくすることをひたすらに求めている容姿に優れた同級生・ニコと「ふたりでひとり」としてちょっとした卑怯な方法で作家として天下を取りにいく話は、その設定からしてワクワクするものなのですが、何が凄いといってこれ、途中から物語がどんどんジェットコースターホラーの様相を呈していくのです。
最初は「ふたりなら、凄いことができる」にワクワクしていた女の子たち。でも、そもそも「小説が書きたい」わけじゃなくて「わたしはすごい」を感じたい女の子と「大事にされたい」女の子の間にある齟齬は最初から明らかになっているのだから、もう途中からは胃が痛いどころではない話になり――ラストにいたってはもう完全にノワール。
面白いのは、最初からふたりとも永遠の「ふたりでひとり」なんて完全には信じていないし、互いを利用していることにもどこかしら自覚があるというところ。でも、そんな彼女と彼女は、出会ったときには誰よりも互いを必要としていて、ほとんど依存に近い「もうひとりのわたし」への愛情があったし、祭が始まる「前夜」の幸福感が特別だったということは揺るがない事実、なのです。そこから、「うまくいく」ことで捻じれていく関係はそれがティーンエイジャーらしい身体的トラブルを伴っているのも含めて(『ほかに誰がいる』や『感応連鎖』もそうだったのですが、私は朝倉さんの描く「精神状態の不安定が身体を変容させる」感覚のウワッとなる生々しさがとても好きなのです)あまりにも痛々しく恐ろしい。ふたりの視点は対等に描かれているのですが、特に「弥子」の”外側担当”のはずのニコが内面を持ち始めることの不安が「自分自身の身体が思うようにコントロールできない」流れと重ねられるのには唸りました。
女子たちの親友への愛情のかたちにはひとつとして同じものはないと思いますし、『てらさふ』のふたりほど極端なことはそうないとは思いますが、ひとつの傾向としてこういう「私としてのあなた」という愛着の持ち方には覚えがある人も多いのではないでしょうか。女性同士の友情破綻の実話の数々が納められた『女友だちの賞味期限<実話集>』も、少し前にヒィヒィ言いながら読んだ1冊なのですが、ここにも「自分のように(なりたかった/なれたはずの私として)相手を愛する」友情のバランスが崩れ、「あなたはわたしではないし/わたしはあなたではない」という真実があからさまになるにつれて崩壊していくエピソード、そしてそこに「身体的な変化」が友情の喪失のきっかけになるというパターンが多く出てきました。
たとえば、姉妹のように仲良しでそっくりだったはずの友人たちと自身が繰り返した流産の苦しみを決して共有できないという距離感が関係を変えていくケイト・バーンハイマーの「母親失格 子供が産めない私とめでたく産んだ彼女たち」。自身もアーティストであるはずの「私」がベッドで病気に苦しんでいた、その絶望を自身の芸術作品でモチーフにした友人に怒りを抑えられなくなるジェニファー・ギルモアの「潰瘍性大腸炎 私の病気を作品のネタにした女」。
ヌアー・アルサディールの「どろぼう猫 なぜ彼女は私のすべてを真似したか」はどんどん自分とそっくりになっていく友人に覚えた恐怖のエピソード。学生時代に憧れていた大人びた女の子が学校を卒業して時間を経るほどにどんどん荒んでいき「あの頃の彼女はどこに?」と思いながらも「自分も変わっている」ことを実感するエリザベス・ストラウトの「被害妄想 私を消耗させた友だちの「自分探し」には、よしながふみの名作『愛すべき娘たち』の第4話を思い出す。
「もうひとりのわたし」だから彼女のことが大好きだけど、彼女はほんとうは私じゃなくて、私は彼女じゃない。少なくとも全く同じ環境、全く同じ身体を共有できるわけじゃない。だからいつだって不公平になっていく。「自分から離れた」例が多いけど、実際は自分にも罪悪感を持っていることのほうが多い。当時のお互いの言い分を聞いてみれば、どちらが悪いわけでもない。(それぞれの視点から友情の崩壊を語る「絶交の理由〈A面〉 なぜ親友ヘザーを失ったか」「絶交の理由〈B面〉 なぜ親友エミリーを失ったか」はよく二人ともこれを世に出したものだと思います)でも、もう戻ることはできない。
私個人は「女子同士の友情」はそう儚いものではないと思っています。でも、愛着が強すぎ、そして身体的に不均衡になったとき壊れやすくなるというひとつの典型は存在する、とも思っています。ブロマンス(Brother+Romance)の女子版として友人が名づけた「ロマンシス(Romance+Sisterhood)」という概念に加え、こうした「あなたを私のように愛する」友情のかたちというのは、「女子ふたりもの」の特性として存在しているのかもしれません。「もうひとりのわたし」としての友情関係は恐ろしいものや深い絶望に変容することがある。そういう物語は、正直、読んでいてとてもつらいものではあります。それでも、だからこそ、永遠ではないとどこかで気づきながら、無いものを相手に希うことによって結び付けられた「無敵の私たちでありたい」という女子たちの友情以上!恋以上!の切なる望み、それを背景にしたいたたまれない物語を、私はこよなく愛していますし、これからもきっと愛し続けるのだと思います。 (@vertigonote)