【Book】知らないはずの、知っていること/『夜の姉妹団』『明日は遠すぎて』

こんばんは、@vertigonoteです。先日の花園会パーティに遊びにきてくださった皆さん、はじめましての方もおなじみの方も本当にありがとうございました。インターネットの人たちがテーマを決めてみんなでちょっとおめかししてお喋りする会、定期的に今後も開催してまいりますので、どうぞお気軽にお声かけくださいませ。

さて、その花園会パーティでおしゃれのテーマにしたのが「夜空の姉妹団」。何かひとつ「夜空」を連想されるアイテムを、ということから星の柄物やブルーやブラック、光物アイテムなどを身に着けた女子集団の集合はなかなか見た目にも壮観だったのですが、このイベント名の元ネタはもちろんスティーヴン・ミルハウザーの短編「夜の姉妹団」。今度グッチーズ・フリー・スクールさんで今作を映画化した『シスターフッド・オブ・ナイト 夜の姉妹団』作品の日本初上映も決まっているので楽しみにされている方も多いのではないでしょうか?

夜の姉妹団―とびきりの現代英米小説14篇今作が収録されているのは外文読みの皆さんの間で名アンソロジーと名高い『夜の姉妹団―とびきりの現代英米小説14篇』(柴田元幸訳・編)。わたしも友人に勧められて最近初めて読んだのですが、説明のしにくい味(でも何か懐かしい気もする)しか入ってないお菓子の箱みたいな短篇集で、とても楽しい読書体験でした。

お気に入りを3作あげるなら、やはり表題作のスティーヴン・ミルハウザー「夜の姉妹団」。
「存在を他言しない」「誰が一員なのか、何をしているのかは完全に部外者には秘密」という女子学生たちの夜中の謎の集会が明らかになったことで、一体何をしているのか、と街の人たちの間を駆け巡った噂がコミュニティをパニック状態に陥れるのですが、どんなに波紋が広がっても少女たちは「秘密」を守り続ける。何も言わずに、ただ抜け出して、夜に集まり続ける。わかろうとするひとたち、覗こうとするひとたち。わからないままにしておけない人たちから「わからなさ」を守ることで守ろうとされているものが何なのか、ここでは全く言語化されません。そもそも女の子たちが明確に目的が何なのかも認識してないままにそうしているように見える。無意識に広がっていく靄のような、言語化されない曖昧さ、でも必ず存在している「それ」。「それ」を知りたいという願望の暴力性/知っているという傲慢に気づかない者には決してわからない「それ」。寓話めいた話なのですが、排斥されるほどに強化される「それ」について、私も確かに知っている……と思える物語。

mazel収録作のなかで私が一番好きだったのはレベッカ・ゴールドスタインの『シャボン玉の幾何学と叶わぬ恋』。“知の得意分野”が全く違うユダヤ系ファミリーの祖母・母・娘の三代のスケッチである今作では、「わかりあえないけど仲はいいし、なんのかのとつながっている、でも心の内側のささくれは知らない」という温度と湿度が絶妙な一編。母娘それぞれが互いの分野「?」を抱えた不完全な同性の家族、3人とも「収まりきらない」タイプの娘だった3人が、互いに向けあう「愛」だけでもない、どうにも複雑な感情。そこからそれぞれの心にしまわれた「恋」から浮き上がってくるのがとても好みでした。祖母サーシャの代は情熱で因習を破ることに費やしてきた、そのサーシャからするとまじめすぎる地味な演劇・文学畑の娘クローイ、彼女からすると不思議で仕方ないシャボン玉を研究する数理的思考の娘フィービー。それぞれ知らぬ想いがファミリー・ヒストリーの中には眠っていて、わずかなセンチメントがシャボン玉のように虹色に光る瞬間が克明に捉えられるとき、1ミリも自分と重ならない人たちの話が「記憶のどこかにあったかのように思える」瞬間がありました。残念ながらこの作品を原型にした長編小説“Mazel”はじめ他の作品は未邦訳のようなのですが、邦訳される日がきたらぜひ読んでみたいと思います。

もう1作を選ぶなら奇妙で哀しいジェームズ・パーディ 『いつかそのうち』。かつての家主でありただ一人自分を愛してくれた男を探すために、ポルノ映画館に入り浸る刑務所帰りの男が語る奇妙な話です。届かないものを希い届いたかと思うと遠のくということを「名前」を通じて象徴的に描いていて、惨めなんだけど不思議な高揚感と「これでいいのだ」感があって、なんだかとてもせつなくて、そして可笑しくて痛ましくて、どうしようもない。この「どうしようもなさ」というのは私がフィクションにおいてとても好きなもののひとつですし、この感情が描かれている場面に出会うときキャラクターを急に近しく感じるのです。(我ながら暗い)

こうしてみるとやっぱり私はこうした小説の中の「知らないはず/自分の人生ではおそらくありえないはず」の物語に「知っているけど、忘れていた」自分の感情が呼び起こされ、描かれる世界と共振する瞬間に胸を打たれているのだと思います。そういえば今年いちばん大泣きした短篇集、アディーチェ『明日は遠すぎて』はまさにそういう作品でした。まあ私の場合We Should All be Feministsでも知られる大好きな作家、ナイジェリア出身のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの小説を読んで泣かなかったためしがないのですが。

adichie_chimamanda_download_2これほどに彼女の小説に心を引き絞られるのは、私の場合、ページの間から聞こえる「遠く離れた場所で全く異なる信仰や異なる世界観や異なる時代の中で生きている、一見私と共通項なんてなさげな彼や彼女たち」の声が、完全に私が知っている居心地の悪さや寂しさといった感情、できれば忘れたいと思っている感情とどうしようもなく共鳴してしまうから、なのでしょう。煮詰まった人たちの怒りに近い熱量を持った寂しさ、わたしが望んだのはこれじゃなかったのにというままならなさへの慢性的な心の痛み、それでも喪われることがない前を向こうとする意地。「知らないはずの、知っていること」がいつもこれ以上ないほどに明瞭に語られている――それが私がアディーチェの小説を読むときにいつも感じることです。

明日は遠すぎて今作には対になるように思える短篇がいくつか収録されていて、何度もハッとする瞬間がありました。「鳥の歌」ではたくましくビジネスシーンを駆け抜けるラゴス・ガールの「現代性」がある種の裕福な男の人たちの愛人というかたちで搾取され、別のタイプの女性から憎悪を受けることもわかっているのに別れることができない彼女たちの現実が描かれます。では何故彼らが彼女たちを愛人にせずにいられないのか、そのヒントは別の短編「シーリング」にあって、学生時代に輝いていた元彼女のこと、そして既にもう遠い場所にいる彼女からの手紙に動揺して、あの頃の回想を繰り返し続ける「今は何不自由のない生活を送っている」男、という存在が見えてくる。
あるいはアメリカで暮らす大学院生の女性が「祈ろう」と現れた同じアパートに住む青年と関わって互いの痛みの理由を差し出し合ったとき信仰の根源に触れる美しいエピソード「震え」と、ある種の階級であるがゆえにひたすらに傍若無人だった兄が収監されて変わっていく様子を描き、ナイジェリアの腐った組織の現実と希望を行き来させる「セル・ワン」。これも全く異なる話なのに、不思議なくらい「同じ血」が流れていることを感じられる2作品でした。いくつかの作品が折り重なっていくと、それぞれの物語に描かれる世界はぐんと奥行を増す。

最後におさめられた「がんこな歴史家」には本当に胸がいっぱいになりました。気性激しく逞しく、惚れた男を愛し抜いて一緒になって、流産を繰り返しながらひとりで子どもを産んで育て、時代時代の変遷とともに「私の人生」を生きるめちゃくちゃたくましいおばあさんの物語です。パーソナルなものとして語られていた物語が、「受け継ぐもの、受け継がれるもの、わたしがわたしであること、いつかそれは物語になる」という「大きな物語」にラストの数段落でぐわっと飛翔する瞬間!私は彼女(たち)の語ること以外に何も知らないけれど、確実にその声と響きあうものは自分の中にあるという確信とともに、「私の物語」が「あなたの物語」として受け渡され、今、私の元に届いたんだということに落涙せずにいられませんでした。

narrative-794978_960_720私は読書においてこうした「(感情移入はあまりしないのに)キャラクターの声に自分の中の何かが共鳴して忘れていた感情が呼び覚まされる」のがいちばんぐっとくるポイントなのですが、もちろんこのポイントは人によって、また作品によってまったく違うことでしょう。描写のディテールを楽しみ、言語感覚や文体の気持ちよさを楽しむのも読書の楽しみですし、プロットそのものに衝撃を受けて射貫かれるのも楽しいもの。編者のセレクトの妙を味わいそれぞれの作品の「異」を楽しみながら新たな作家に出会うきっかけとなるアンソロジーも特定の作家の「世界の見え方」を多角的に堪能できる短篇集も、じっくり読める長編も、それぞれにいいものです。
いずれにせよ、9月になり読書の秋の到来です(まだまだ秋っぽくないですけども)。本の中でなら目に見えないところにだっていける、予想もしなかったものに気軽に心を重ねられる。あなたにも私にも、お気に入りの素敵な1冊が見つかりますように。明日も善き物語を! (@vertigonote)

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