【Book】暗黒乙女の春の夜~久世光彦の世界に酔って

Isola_dei_Morti_IV_(Bocklin)暦はもう3月。春が訪れた今夜、こんばんは、@vertigonoteです。まだまだ寒い日が続くというのに木々には花の予感が漂い、少しずつ春の匂いがしてくる不思議な夜が続く日々がもうすぐ訪れることでしょう。こんな時期、私が読みたくなるのは久世光彦の小説やエッセイ。何か不穏な気配を湛えた冬の空気に囀りはじめた春の官能が入り混じるこの時期にはどうしても読み返してしまいます。

花迷宮たとえば、『花迷宮』。耽美ロマンの香気にあてられてくらくらしそうなエッセイ集です。眩暈がするほど美しい日本語で綴られた幼い日々の記憶の花が次々と零れ落ちてくる、これはまるで耽美な「銀の匙」。7歳までは神のうちとはよくいったもので、久世少年の甘美な記憶は神に選ばれし者の記憶に見えてきます。庭のある薄暗い家で育った人間にはハタと頷くことばかり。ぼうっとけぶる庭を眺めた雨の晩のけだるさと「何者かがどこかにいる」気配、といった私自身の幼い頃の記憶がじわじわと皮膚に蘇ってくるよう。

「うつしよはゆめ/よるのゆめこそまこと」の魂に幼い頃から共鳴していた早熟な久世少年は、夢現で麗しくも猛毒の花の迷宮をさまよいつづけます。花の種類はご真影、大人の小説、昔話、お経の響き、アンドロジナスな宝塚の美少女(美青年)、軍歌、狂女、暗い書斎、香る金木犀、正信念仏偈の響き、昭和という時代の戦争の影と不幸への甘い欲望。研ぎ澄まされた神経で肉体を通過せぬ官能ゆえ一層昂ぶる「いけないこと」への憧れに五感を全て傾ける昭和初期の少年の心には、間違いなく暗黒乙女が宿っていたと思われます。

時を呼ぶ声

たとえば、『時を呼ぶ声』。美しい不良めいた大人になりたくて、必死に背伸びしていた少年たちの思い出が、時代の音、時代の映画、時代の夢で乱反射。万華鏡のようにひろがっていく、著者の青春の少し手前の季節の回顧録。

その人に恋していなければ、犠牲というもよい。けれど、恋する者の気持ちを知らずにいっしょくたに犠牲と呼ぶのは正しくないばかりか、死者たちへの冒涜だとさえ私は思う。恋する者の熱い心は、おなじ恋する者にしかわからないのだ。

信仰と愛が潰えた終戦の夏に青い空が残り、やがてきらめいた「青い山脈」。あの歌詞に時空を超えて蘇る14歳の夏。父の死、早熟な不良美少年だった友人への憧れ、バダジェフスカの「乙女の祈り」を弾く少女。「こわくてうつくしい大人の世界が存在していた頃」の物語というのは、どうしていつもこんなに私を息苦しくするするのでしょう……そしてどうしていつもまぶしいのでしょうか。

怖い絵『怖い絵』のイメージも鮮烈でした。ロシア・イコンのような貌をした不良青年である友人と彼に惚れている姉妹(姉を抱きながら考えているのは友人の美しい貌、という「男-女-男」の性愛は久世作品に多く登場します)との四角関係。 まるで内臓と性器をさらけだした女のような甲斐庄楠音の「舞ふ」に呼び起される、戦時中に道端に転がっていた死んだ女たちの脚に覚えた「あってはならない」欲情。 ビアズレー、あるいはギュスターヴ・モローの描いた「サロメ」を見るたび蘇る、高校時代の美しい年上夫人との不倫の恐ろしすぎる顛末。 伊藤彦造の「豹(ジャガー)の眼」の少年剣士の凄艶美に震えた子ども時代のマゾヒスティックなときめき。 クノップフの描く死都ブリュージュのようにおそろしかった、廃墟となっていく町の忘れられない記憶、巨大な墓、裕福な家の少女、少年時代の終焉。
「怖いということはうつくしいこと/怖いということはエロティックであること/怖いということは生きていること」という著者の意識が行間からあふれだす、現実と夢の狭間に立ち昇る【真実】。私が死と性のにおいが濃厚な絵に惹かれる理由が、ここには全て書いてありました。そもそも出てくる絵が全部好きなので「ああ、本当に私はこっちの畑の人間だ…」と確信するのでありました。物語のほとんどが著者の回想録の体裁なのですが、エッセイとも小説ともつかぬ「私」の記憶がたりなのでどこまでが真実なのかはわかりません。それも含めて妖しく色っぽくて、大好きな作品です。
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ちなみに私がいちばん嬉しかったのは「豹(ジャガー)の眼」が出てきたこと。子どもの頃読んだ『南総里見八犬伝』の挿絵が伊藤彦造の手によるものだったのには大人になって気付いたのですが、そのときほど「原点からは逃れられない……」と感じたことはありませんでしたね……

聖なる春小説ならば、『陛下』や『一九三四年冬―乱歩』も好きだけど、この季節なら『聖なる春』。
いつからか蔵の中に引き込もってクリムトの贋作を描き続ける顔に痣を持った画家の「わたし」、出会った頃は画学生だった可愛い愛人キキ、フランソワと名乗るのがまったく身の丈にあってない醜男の画商。それぞれが得られない夢にぼんやりと手を伸ばし、失ってしまった過去の幸福に痛みを覚えながら「聖なる春」の訪れをを待っていて、いつもフランソワの優雅なる飼い猫フランソワーズが絵の間を歩きまわっている―― まるで古いフランス映画のように倦怠をしなやかにまとったキャラクター造形。ともすると気障で鼻もちならないポエジーは見事にある時代の日本の裏通り風景に溶け込み、金色のけぶるような哀しくてなつかしい光の感覚は、なるほどクリムトの描く世界とよく似ています。その通俗的で猥雑なものを秘めた耽美の色合いも含めて。

星明かりの中、私の掌の薄桃色の花びらは、
微かに震えているように見えて、実はもう命のない桜の骸である。
私には、それが痩せた一人の女の子の春に溺れた骸に見える。

朽ちた桜の花びら一枚が舞い降りるさまが乙女の残骸になぞらえられるこういう描写なんてゾクリとするほど美しくあやうく、ロマンティックに恐ろしい。夢と現実がクロスしていくのもスリリングですが、今作で私が何より好きなのは「どんなに身体を触れあわせても男も女も体に抱えた寂しさは絶対になくならない」という孤独が描かれていること。エッセイで繰り返し描かれてきた「いけないことへの罪悪感の甘美」にくわえての圧倒的な孤独、これほどに欲望を彩る色彩として私が好きなものはそうありません……!

モチーフを変えながら、またエッセイ・小説と形式を変えながらも、久世作品で描かれる題材はどれも似た貌をしています(実は題材がかなり使いまわされているので「あ、このエピソードは他でも読んだ」というものもかなり多い)。しかしどれを読んでもいつも胸を締め付けられてなりません。私は「喪われてしまったものを希いながら絶対に届かない」物語が本当に好きなのですが、ぼんやりかんじていたその傾向が決定的になったのが久世光彦のエッセイや小説との出会いでした。美学と知性の鋭利とある種の通俗があるからこそ切実な暗黒乙女の世界は等価にして並立しうる。そんなことを感じさせてくれる久世作品、あなたも微熱っぽい春の夜には手にとってみてはいかがでしょう。少なくとも魅惑的な男性の表情のディテイルを彫り込んでいく文章にこんなにも熱烈で狂おしい情念を感じる男性作家の例は知っている限りほとんどないので(ちなみに『悪魔のようなあいつ』の企画書はその究極だと思います)、そこにも是非注目を。(@vertigonote)

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