【Movie】聴こえないからこそ饒舌な、音楽/『愛、アムール』

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こんにちは、高野麻衣です。
わたしはいま、音楽について書くことをおもな生業としています。
マンガのなかに登場する楽器を弾く王子たちや、インテリっぽい会話へのあこがれ=恋がすべてのはじまりでした。
マンガと音楽はわたしにとって同等で、切り離すことのできない、自分の両輪のようなものだったのです。
数年前からマンガについても書くチャンスが与えられた私は、さまざまな出会いを経て、『マンガと音楽の甘い関係』を出版することができました。
発売からもうすぐ2ヶ月があっというまに過ぎますが、ほんとうに、感謝でいっぱいです。
http://www.ohtabooks.com/publish/2013/01/08100111.html

■音楽を流さない理由
執筆のなかで確信したことに、「音楽は、感情の動く瞬間に流れる」という事実があります。
音楽って、エモーショナルですよね。
仲間との一体感を味あわせてくれたり、恋を盛り上げたり。
10代の頃好きだった曲には、誰もが特別な思い入れをもっていたりします。
おなじように、マンガのなかのさまざまな音楽描写(演奏シーンとか、レコードを流すシーンとか)にはエモーションがともないます。
逆に、反響の大きかった『銀魂』の主人公・銀さんのエピソードのように、「音楽をほとんど聴かない」ことが「つらい過去をもちながら、それに囚われることなく飄々と生きる男」というキャラづけにすらなるわけです。
「音楽をあえて使わない」マンガ家というのもあって、わたしにとって、その代表がよしながふみでした。

ミヒャエル・ハネケ監督の映画『愛、アムール』を観たとき、まっさきに連想したのがこの、よしながふみのマンガでした。
美しい画面で、人生の抗うことのできない残酷さをも描く、その筆致は静謐。
音楽をほとんど使わないことによって、あえて、よぶんな感傷を排除する――

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ハネケ監督は、『ピアニスト』という代表作もあるように、音楽好きで有名です。

『愛、アムール』の主人公であるパリの老夫婦アンヌとジョルジュも音楽家という設定で、物語はある夜、成功したかつての弟子アレクサンドル(本人役で俳優初挑戦のピアニスト、アレクサンドル・タロー)のリサイタルにふたりで出かけるところから始まります。

朝はいつものゆで卵に紅茶、昼はサラダとステーキ。夜はコンサートに出かけ、帰ったらきちんとクローゼットでコートを脱いでひとこと、夫が告げる。「今夜の君は、きれいだったよ」――ほかにも「アーノンクール(実在の指揮者)の本はどこかしら?」というセリフがあったり、レコードを聴いたり――そして風格あるアパルトマンの居間に鎮座するグランドピアノがなにより雄弁に、幸福だった“音楽の時間”を思い起こさせる。

にもかかわらず、劇中にはほとんどといっていいほど、音楽が流れません。
彼らが知的階級であることがはっきりとわかるような美しいフランス語の会話だけが耳に響きます。
そのぶん、静謐のなかに突然入りこむ音楽(=情動)にはっとするのです。
アレクサンドルの弾くシューベルトの流れる、とある幻影のシーンが、劇中もっともドラマティックだったように。

わたしはミュージカルや、途切れることのない音楽で高ぶってしまうような映画も大好きです。
ただ、ハネケのように本当の意味で音楽を愛する監督がいる一方で、「サントラでしかないもの」を流しっぱなしにしている映画もたくさんあって、よく臍をかみます。

音楽が情動ならば、しつこいサントラは感情のおしつけに感じてしまう。
「映画と音楽」の話も好きなのに、わたしがうしても「マンガ(小説)と音楽」という“実際には聴こえない音楽”の話を偏愛してしまうのは、そういう同調圧力から自由だからなのかもしれないと、試写会のあとでおもいました。
気づいた人は鳥肌が立って、気づかない人もなんだか気持ちよくて、そのくらいがちょうどいいのかもしれません。

映画は、圧倒的な愛の余韻を残して終わりました。

わたしは美しい男と女のありかたに感嘆しつつ、胸をえぐられつつ、音のないエンドロールを見つめていました。

会場を出て、いつものようにイヤホンを耳につけても、音楽を流す気にならなりませんでした。ガタンガタン、という地下鉄の音を聴きながら、油断するとこぼれそうになる涙を必死でこらえていました。

そして夜になってふと、アレクサンドルのシューベルトが流れてきたときには、もう、嗚咽が止められませんでした。

音楽の力とはたぶん、そういうものなのです。

http://www.ai-movie.jp/

(高野麻衣@otome_classic)

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