【Book】【Movie】我ら石原郁子チルドレン/「映画をとおして異国へ」

こんばんは、@vertigonoteです。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、2012年の年末に『ダイアナ・ヴリーランド 伝説のファッショニスタ』(傑作ドキュメンタリーです!未見の方は早々に劇場へぜひ!)を見たこと、高野麻衣の新刊『マンガと音楽の甘い関係』を読んだこと、そして2013年、年初からの数日、石原郁子先生の著作を再読していることで私のなかに今年のテーマとしてひとつのキーワードが浮かび上がってきています。
それが「憧れ」という原点。

映画をとおして異国へ石原郁子著「映画をとおして異国へ」。同世代(現在30過ぎくらい)にはお読みになっている方もいらっしゃるでしょうか。私の大好きな映画評論集。ここ数日、何度もこの本をぱらぱらとめくってはそこにある「言葉」こそが私を「映画というもの」に憧れさせたのだ、ということを改めて感じているところです。

とても私的な「映画との出会い」の話になるのですが、私は決して子どもの頃から映画のあふれる家で育ったわけではありませんでした。中学生の頃、友達が見ている「スクリーン」や「ロードショー」を見て映画という文化に興味を持った私は、友達から借りて読む雑誌のなかの映画コーナーや、図書館で出会った映画についてのガイド本が大好きだった「活字から入った映画好き」なのです。「ミニシアターと呼ばれる場所ではこんな個性的な映画がかかってるのか・・・いいな・・・」と憧れながら、実際に見られることはなくても、その文章のなかでの物語やシーンの描写、引用された台詞やスチール1枚で想像される「脳内映画」の世界は無限に広がり、私の心にはたくさんの「見たような気がする」映画が生まれていきました。

高野麻衣嬢(@otome_classic)の家で彼女お手製の雑誌掲載映画評スクラップ帳を見たときにも思ったのですが、きっとそんな女子たちがあの頃いっぱいいたのではないかと思います。大学に入り上京して、ようやく「ああ!これが!雑誌に出ていたシネマライズ!(今はもうない)シネセゾン!(今はもうない)シネ・ラセット!(今はもうない)中野武蔵野館!」と劇場に通い、パンフレットを買いあさり、ただそれだけでうれしかった日々は今もよい思い出。

思い出話が長くなりましたが、そんな10代の頃に出会い、わたしの「憧れ」をバーストさせた数々の映画評のなかで、特に印象に残っていたのが、早逝が本当に惜しまれる映画評論家、石原郁子先生の言葉の数々でした。1990年代、少し変わったミニシアター作品、特にセクシュアリティ/ジェンダーという色彩がテーマとして濃い作品には彼女のレビューが必ず寄せられていたように思います。彼女の紹介するさまざまな国の映画、その見たことのない映画で素晴らしい演技を見せている、姿の良い女たち/男たちを評する言葉がなかったら、わたしはきっと今こんなに映画のなかの「美しさ」に意識が向いていなかったでしょう。東京から遠く離れた地方都市にいた化粧っけのない地味女子として冴えない青春を過ごしていた私にとって彼女の映画評は「憧れ」の象徴でした。

彼女から教わったのは、物語を追う楽しみだけではなく、画面に示されたモノに、俳優が浮かべる表情に、風景のディテイルに、耽溺する歓び。時代の「気分」を映画のなかに読みだす快楽。「映画をとおして異国へ」は、彼女のその「美しく平易な言葉で物語の美しい瞬間を切り出す」名レビューの数々を堪能できる名著です。

たとえば『ピアノ・レッスン』評の冒頭。
piano1

激しくしぶきを上げて荒れる海。昏い空の下、男たちの肩から肩へ担がれて船から岸へと渡される母と娘。人の背丈より高い波が、陸揚げされた荷をさらってゆく。濡れた砂が歩く足元をすくい、満ちてくる潮が長いスカートの裾を浸す。写真でしか知らない夫は、道が悪いためか迎えが遅れ、母娘は風の吹き荒ぶ浜で夜を明かすしかない。雨模様の日暮れ、浜に並べられた幾箱もの婚姻のための荷物。大きな木箱に入って、壊れ目からわずかに姿を覗かせているピアノ。母と娘以外にひとけのない、原始のような昏い巨きな海のたたずまいの前に置かれた、ピアノ。

巧みな冒頭のシークエンス描写に留まらず、ここには「物語が始まる瞬間」の歓喜があります。そして「暗い」でなく「昏い」、「大きな」でなく「巨きな」である漢字が想起させる絵の力。

あるいは『ガタカ』のユージーンとジェロームを評したこんな文章。gattaca

反発しつつも、お互い以外に助け合える相手は誰もいないのだ。
(中略)
そして、宝石が研磨されてその輝きを顕わすように、互いに傷つけあうその痛みから、
ほとんど<愛>と呼べる美しい瞬間が研ぎだされるのだ。

ああ、こんな文章が書きたい!その「憧れ」が、わたしのなかにはずっと眠っていました。

石原先生の新作映画評が読みたい……今もたびたび感じていることです。「都市は監督の手に掴まれ、その内側で大きく変容してゆく」の1行で始まり「夜のネオンの下で、都市はもはや乾くのでなく静かに潤んでいくのだ」で終わるウォルター・ヒルの「ザ・ドライバー」評を読めば、石原先生だったらどんなふうに『ドライヴ』や『SHAME』を評価しただろう、と考えずにいられません。着想の素晴らしさという部分だけではなく(おそらく彼女が小説の人でもあったからだと思うのですが)「最初の1行/最後の1行の呼応」といった技術も鮮やかで、「映画を通じ、新たなひとつの物語を綴る評論」が成立しうることがあっけなく証明されてしまうところが痛快なあの文章。しかし、もうそれはかなわないこと。

でも、ですね。
これを言ってしまうのは、すごく恐れ多いことなのですが。わたしたち石原郁子チルドレン――基本的にお友達2名くらいですが――が好きな映画の感想や俳優礼賛の言葉のなかで、そして、こういう記事のなかで、彼女から学んだ魂を受け継いでいくことは、不可能じゃないはず。感性や知識や文章力で及ぶべくもないのは百も承知ですが、学んだことを生かせなくて私たちの世代が「憧れ」をどうして昇華できるでしょう!

だからまず、今日はこの書籍を紹介しました。彼女が亡くなってから10年、その文章を読んだことない映画好きな若い男子女子も増えてきたと思いますが、この機会にぜひ、触れてみてほしいと思います。あの優雅なミーハーさ、品の良い文体、しなやかに戦う女性としての姿勢は本当に稀有なもの。映画感想を語るうえで、知っておいて損はないはず、と思います。
と書きながら、まあ何よりついつい勢いで書き飛ばしてしまう自分の感想文にもう少し彼女のような「正調の文体」への意識を取り戻さねばですね……と背筋を伸ばす今日この頃です。(@vertigonote)

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