【Book】ドーランギャンガー・サーガをあなたに/『屋根裏部屋の花たち』シリーズ

こんにちは、@vertigonoteです。なんだか私ばかりが更新しているようでごめんなさい。現在@otome_classicと@girliennesがお仕事の佳境に入っておりますので、変則的なかたちになりますが引き続き更新を担当させていただきますね。ということで、しばし私の連投となることをご容赦くださいませ。

さて、春の嵐が吹き荒れる本日には、嵐にふさわしい暗黒乙女大河浪漫小説の古典、V・C・アンドリュースの「屋根裏部屋の花たち」とその続編のお話を。

 ■屋根裏部屋に閉じ込められて「いないことにされた」4人の美しいドーランギャンガー家の子どもたち、通称“ドレスデン・ドールズ”の物語は言わずと知れたゴス少女バイブル。(もちろんゴスでパンクでキャバレーなユニットThe Dresden Dollsのネーミングの由来でもあります)本当に過剰におそろしくて、過剰に感傷的で、だからこそうつくしい小説です。
完璧な保護者だった父親の死、美しい母の変貌、両親の秘密。いつかお城みたいな家で贅沢に暮らしていけるという愛という名前の甘い嘘にコーティングされた箱庭としての小部屋で暮らすクリス、キャシー、キャリー、コーリーのきょうだい。小さな妹と弟の父母になりかわる健気なクリスとキャシーの間にはやがて分かちがたい絆が生まれていく――かつての父母と同じように。呪われたこどもたちは煤けた屋根裏部屋を飾りつけ、終りの見えない監禁生活を送り続けるという、この設定だけで息がつまりそうになるというもの。そのうえ、少女期を奪われた語り手キャシーの目を通じて見たくない現実が次々と立ち現われていくさまは、ただただ恐ろしく、せつなく、痛ましいものでありながら――なんともいえず甘美に描かれているのです。母の身体に残る「罰」の跡、兄クリスが飢えをしのぐため自分の腕を切ってキャリーとコーリーに血を与えるシーン、バレリーナ志望のキャシーがいつまでも彼らが「子ども」だと信じている母に与えられた小さなレオタードでくるくると踊る姿――独特の官能性が物語を鮮やかに彩り、困ったことに悲惨な状況にすっかりうっとりしてしまった読者はきっとたくさんいるのではないでしょうか。ええ、私もその1人です。

■永遠の闇で飢えながら、あるいはときに鞭打たれながら、たくさんの玩具のなかで遊びながら、兄妹たちが待つ「いつか」。母への疑念、性のめざめ、あってはならない禁忌、信じがたい恐怖と悲しみ。すべての官能を禁止する恐ろしい祖母によって閉じ込められ、色鮮やかに飾られた子ども部屋での「土も緑もない部屋に子どもたちだけがキラキラしたおもちゃに囲まれて暮らす絶望」のイメージが、冒頭で例えられるとおりまさに「屋根裏部屋の花たち」=つくりもののイメージとして立ちあがってくるのはもう圧巻。美しい造花に満ちて不穏な影で揺れる部屋で暮らす彼らは、はたしてどうなってしまうのか。ページをめくる手が止まらなかったことを覚えています。映像化もされているのですが、こちらは未見。あ、この妄想トレイラーはなかなか良くできています。サーチしたところこんなファンアートもありました。素敵。

■さて、その先にある物語が、『炎に舞う花びら』 『棘があるなら』 『屋根裏部屋へ還る』の続編3作。この4作、もしくは番外編『ドールハウスの夢』を加えた5作品でこのシリーズは「ドーランギャンガー・サーガ」と呼ばれています。『屋根裏部屋の花たち』は古典化していますが、案外この“サーガ”全てを評価する声は低い。それもそのはず、「花たち」は単体でもとても安っぽくも熱っぽい残酷なゴスっ娘バイブルとして完結していて、1作での完成度が高い。しかし2作目からはどう見てもその熱量が間違った方向にスパークするのです。

『炎に舞う花びら』では唐突に物語は異様なテンションで超絶展開が続く大波乱ロマンス小説に変貌。一種の「家なき子ファンタジー」といってしまえばそれまでなのだけれど、生々しく皮膚感覚に訴えかけてくる艶かしいバレエ・シーンや性的な身体のふれあい描写、大人なのか子どもなのかわからないまさに「小悪魔」として男性に君臨する(本人は望んでいないのに!)主人公キャシーの不安定な精神、もうこれでもか!というくらいに不幸と幸福の波が次々と美しい「ドール」たちに襲いかかるメロドラマ!!何がなんだかわからないエネルギーがあふれかえっているのです。 兄への愛に心揺れ、妹は過去の後遺症に心を病み、そのあまりにも哀しい展開に胸を痛ませるまもなく、復讐計画に余念なく――ほとんどクラシック少女漫画な世界のジェットコースター展開がたまらなく通俗的でたまらなく魅惑的。語り手キャシーは素晴らしい美貌と才気と天性の“IT”であらゆるいい男に惚れられるのだが、本当に愛しているのが自分と同じ顔をした美しい兄だけ――という設定も懐かしい種類の少女漫画テイストではないでしょうか。

ドーランギャンガー・サーガ全4作中、もっともローティーン女子が憧れるような甘く乾いた粉おしろいの香りが濃厚にたちこめているのはこの作品だと思います。ここにある「大人の世界」はあくまでも「子どもが見た大人の世界」の雰囲気が漂っていて、それが胸を痛ませる。少女たちは少女のまま生きていくよりない、そして陽があたる場所にようやく戻れても日常に陽が差すことがない、ということをこれでもかと装飾的かつ俗っぽい美文で語る、その筆致の巧みさ!実は私、『花たち』以上にこの2作目の『花びら』が(その異様さゆえに)好きなのです。

■一方、子どもたちの恐怖と哀しみに満ちた第一作、ジェットコースター小説の第二作に比較すると、第三作『棘があるなら』とシリーズ最終作『屋根裏部屋へ還る』は少し弱い印象は否めないというのが私の正直な印象です。
『棘があるなら』ではまた語り口が変わって、1・2作目のようなキャシーの魔性は控えられた代わりに、冷酷なまでに子どもたちに引き継がれていく血の呪いがじっくりと描きだされていく。覆っても覆っても、決して再生されないかさぶたの傷。じくじくと滲みだす、過去の膿。未だ悪夢から逃げられない「ドーランギャンガーの子どもたち」には、この作品でようやくひとつの結末が訪れます。しかしそれでも心の平安が永遠に得られないことが示唆されて……という「業の物語」はそれなりに楽しめるのですが、そもそもこれもう暗黒乙女小説じゃなくなって暗黒少年小説に変化しちゃってるんですね。語り手が男子になるとあの熱に浮かされたような文体はもうひとつ冴えない。闇に魅入られた少年の心理ドラマとして相当に怖い話ではあるのですが、キャシー視点でなくなったこのシリーズなんて!と思ってしまうところがあって。

■というものの、キャシー視点に戻った『屋根裏部屋へ還る』も途中までは乗りきれない作品でした。もはや主人公キャシーがすでに少女期を終えたのちの物語になっているからというだけではなく、どうも「不幸のための不幸」みたいなエピソードの連打にも飽きてきて、ちょっとげんなり。出てくる女性がつくづく心が弱くて頭が軽そうなのもなんだかなあ、とため息。
しかし―― この小説のラストシークエンスのキャシーの姿には、その不満さえも霞むほどの美しさ、悲しさがありました。「あのとき」から既にもう既に彼らは葬られていたということ。永遠に終わらない箱庭で置き去りにされた魂は彷徨を続けていただけだったことが示される、あの屋根裏部屋の哀しみ。これまでの物語を彼らと共に過ごしてきた読者への、考えうる限りもっとも痛切なラストシークエンス。このラストのために、ドーランギャンガー・サーガが存在していたのだ、と実感できるはずです。(ちなみにこのあとひとつ前の世代に戻る番外編『ドールハウスの夢』があるわけですが、実は未読だったりします…)

こうして改めて文章に書き起こしていると、数年前に初めて読んだとき、「大人になってから読んで良かった」と感じたのを思い出します。ティーンの頃に読んでいたら、きっとこの小説にとりつかれてしまったような気がするから。ページをめくるたびに甘いような苦いような酸いような味が口の中に広がり、乾いたビスケットが喉に詰まったような息苦しさを覚えながら、4作目を読み終えたときの胸に広がったあの感情は、今でも鮮明に覚えています。
昭和50年代の中流家庭の応接間にある埃をかぶった安っぽい造花のように薄汚く甘い色のドーランギャンガー・サーガを、30を過ぎた人間が積極的に好きだというのは格好が良くないことなのかもしれません。しかし私はこのサーガが大好きです。と私が語るまでもなく、これは暗黒乙女大河浪漫の名品として、今後も末永く読み継がれていくに違いないと思います。心にこうした薄暗い欲望と持て余し気味の微熱を持っている女子たちはきっとたくさんいるはずだから。(@vertigonote)

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